コラム           ・・石工の独り言

石工の魂は石鎚とのみ


ひとつの作品を作り上げるまでには何千、何万回と石を叩き続けなければならない。
そのためには、避けて通れない道がある。石工の第一条件とは石鎚が振れることにある。
(石鎚を振れない石工は石工に非ず)
小僧の頃一番初めにすることが、荒ばつりという原石を垂直にはつることを何ヶ月も続けなければならない。
 毎日、毎日石鎚を降り続けるわけだが、最初はのみに正確にあたらなくて手を叩いたりのみの端にあたるとのみの縁(のみ笠)が飛んで足や腕に刺さり血が噴出したりと散々な日々が続く。
石工でのみ笠が入ったことがない人は絶対いないものだ。同じリズムで石鎚を降るということは初めはなかなか難しくて、これが上達のバロメイターにもなる。
のみに正確にあたると心地よい響きが拡がる。石工の腕を確かめるのに叩く音を聞くだけでどれぐらいのものか判ってしまうものである。
一心不乱に石鎚を振っていると、無の境地になり周りのすべてが見えなくなることがある。
お客さんが来てもぜんぜん気づかず大変失礼したことがたびたびあった。
 それぐらい石を叩くということはひとつのことに没頭することなのかもしれない。
石工の歴史は絶え間なく振り続けられた石鎚とのみの中から生まれたものである。
 狛犬を見るたびに、石工が何千、何万という石鎚を振り続けて、その一振り一振りに魂を込めているということを感じてほしい。
その、のみ跡が狛犬の骨となり皮膚となる。どこのどんな狛犬でも、そんな石工の魂がこめられているものだ。

 



石工のこだわり


石工は狛犬を彫るとき見る人にここを見てくれというところを作るものだ。
それが顔の表情だったり、毛の流れや体の動き,尾の形などそれぞれの石工が知恵と勇気をもって彫り上げている。
 私がいままで見た狛犬でここまでやるかと感心させられたのは、南千住にある素さ雄神社の獅子山だ。
素さ雄神社の獅子山はすごい。何がすごいかというとあの流れるような尾、極限とも思われる尾に私は石工のこだわりを感じた。ここまで長くするということがいかに石では困難なことかということをわかってほしい。
素さ雄神社の獅子山を彫った石工は、石という素材の常識をこえた彫法であの獅子山を彫り上げたのだ。
 石工は、尾の長さにこだわり、決して妥協しなかった。このこだわりが見る人に無限の創造力と感銘を与える。
こだわりのない狛犬ほど、見ていてつまらないものはないだろう。
私も、このこだわりを持ってこれからの作品に生かしていきたいものだ。



石工が思ういい狛犬


いい狛犬と云うものは一体どんな狛犬なのか考えたとき、それは見た人の記憶に残るものがやはりいい狛犬だと思う。
 それは決して気難しい完璧なものではなくユーモラスなバランスの悪い狛犬だったりする。そんな狛犬はバランスが悪かろうが仕上げがまずかろうがお構いなくずば抜けた個性がある。その存在感は見る人の心に強く残るものだ。
いくら丁寧な仕上げの狛犬を彫り上げても見る人の心に残らない狛犬は駄作なのかもしれない。
 石工は狛犬を彫るとき隅々まで完璧に仕上げるのを目標にするのだが、いざ仕上がってみると何か魅力のないものになることがある。
そんなとき石工は遊び心と余裕を持って狛犬を彫り上げることが狛犬をもっと楽しめるものにするはずだ。
作る側も楽しんで見る側もそれを受け入れるそんな形のものが本当にいい狛犬なのかもしれない。


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